ROPPONGI TERRACE
May 15, 2021
赤松佳珠子+ 大村真也/Cat
gallery IHA 2021 春 online lecture
「集合のコト*カタ*マチ」
produce & curation
長谷川逸子
今日は「集合のコト*カタ*マチ」の第1回目、赤松佳珠子+ 大村真也/Cat「ROPPONGI TERRACE」についてお話を伺った。
住宅街のなかにある公園に面する旗竿敷地で、設計の始まりは長屋形式の住宅であったそうだ。設計期間中に東京都建築安全条例の改正(平成31年施行)があり、2mの通路巾では敷地に許容される規模の長屋が建てられないことになった。特殊建築物である共同住宅もこの規模の旗竿敷地には建てられないので、住宅ではなく事務所として建築確認をとることになる。ここで住宅と事務所を分ける要素は何かと審査機関と協議したところ、バスタブがあるかないかで、住宅/事務所が判断される。最小限の住宅設備にバスタブのないシャワールームであれば事務所とみなせるとのこと。
こうした経緯があって、住む場所と働く場所の双方について同時に考える機会が得られ、現代のオフィスがより住空間のように居心地の良い場所へ、住宅はよりオフィスのような開かれた公共空間に、住宅でありオフィスであるような建築を目指すことになった。
公園からみたエレベーションの間口の分節スケールはほぼワンルーム住宅のそれであるが、天井高が2.7mと一般の集合住宅に比べて高いことが、このファサードに違和感を与えている。公園側のガラスの折れ戸と住宅地側の建具を開け放てば、敷地の裏手の住宅街まで見通せるほど透過性がある躯体である。
廊下のある住宅地側から公園側に向かって登るように傾斜したスラブを逆梁にして上階の段床をつくり、スラブの打ち放しの下面が下階の傾斜天井となる。このスラブの傾斜は各階で平行ではなく、玄関から公園側に近づくにつれて各階の天井高は大きくなる。
公園や開けた眺望や、桜の木などに向けて大きなガラス開口を設け、視覚的な開放性を特に強調する類の建築作品を雑誌で見かけることがある。しかしROPPONGI TERRACEはその類の視覚に偏重した建築とは異なるようである。それは廊下側にも両開き建具を設け、大きく開け放てることからも、特定の外部環境のみを評価したつくりにはなっていないことがわかる。
床というあまり操作の対象とされることのないエレメントの単純な操作によって、複数の水準で生活の場をつくりあげている。ひとつは天井と開口高さの差異(住宅地側の2.4mと公園側の2.7m)、もうひとつはスラブの勾配による床のレベル差(住宅地側から公園側へ2段ほど上がる)、さらに床仕上材の反射率の差異(下階へいくほど光の反射率が高くなる。)である。またキッチンやトイレなどの住宅設備を巾1mほどにおさめて、その袖壁をRC壁とすることで、外壁側に袖壁や柱型のない構造を実現していることも特筆できよう。
こうしたエレメントの操作の相関がよく調整されているのが、床の段差と袖壁の位置、開口の高さなどから読み取れる。そうした操作が大きくどれか一つに偏よることがなく、ほどよく抑制されている(床の段差は階段1~2段分であり、天井・開口高さも2.7mを超えない程度)こともわかる。
この住宅のような小規模事務所のつくりから直ぐに思い起こすのは、例えば「fw bldg.(2003年:若松均建築設計事務所)」の床段差、「SNハウス(2003年:長谷川逸子・建築計画工房)」の床段差である。ほかにももちろん人によって多くの作品例が連想されることとおもうが、記憶に残るほど印象的なものはそう多くはない。
平屋ではなく、床スラブを複数積層するときに1階と最上階はそれが地面と、あるいは屋根と接するという点で特別である。中間階ではそうした地面と屋根と接しないという点で、何層あろうと同等である。屋根を傾斜させその勾配の下に住むという経験や、地面から一段(または数段)登って床へ上がるという日常の動作は、木造でつくられた家屋がもつ共通の経験(これをある共同体の構成員に共通する経験=共同性と言い換えたい)をつくってきたものである。さらには、畳の床にわずか15cmほどのレベル差を設けることによって超えられない身分の差を表象してきたこの国の床の在り様を思い起こすこともできる。
都市部で床が積層されるとき、こうした空間形式の共同性が現れる機会は稀である。ここに現代の都市部のフラットな床の積層に対峙して、傾斜する床を積層したROPPONGI TERRACEの果敢な挑戦が読み取れよう。(町田敦)
小さな家 , 北沢のリノベーション
December 5, 2020
『理論としての建築家の自邸』番外編
梁井理恵「小さな家」+
萬玉直子「北沢のリノベーション」
キュレーション:門脇耕三
プロデュース:BEYOND ARCHITECTURE
協力:gallery IHA
クリティック:長谷川逸子+永山祐子
今回は、梁井理恵「小さな家」と、萬玉直子「北沢のリノベーション」(敬称略)のふたつの住宅を同日に訪問させてもらいました。ふたりの若き女性建築家が同時期に自邸を建てる、その過程での二人の手紙のやり取りをインターネット上のメディアであるBEYOND ARCHITECTUREで公表するという試み。共に自邸が完成し、その総括がGalleryIHAで行われた。
今回みせて頂いた二つの住宅は、たまたま同日に拝見したからか、二つの共通する特徴を見いだせた。ひとつは野外との親和性(とでもいうべきか)。「小さな家」では、南北に同規模の庭をとるという配置によって、「北沢のリノベ」では南と東の2面にバルコニーをもつ区画を購入するという選択によって、共によくみかける南面だけに庭/バルコニーがあり採光窓が集中するような住居を好まず、より多くのプライベートな外部との接続を生活の一部に据え、選択している。
こうした選択を補強するように、屋外への親和性を高めるための細やかな配慮が細部になされていた。「小さな家」の1階の主室では、ガラスに映り込む反射によって内外の境界が強調されないよう床・壁・天井すべてを(白ではなく)グレーに塗装している。また窓まわりの壁の出隅にR(曲面による面取り)をとって開口部の強い陰影を無くすことで、内外の境界のエッジを消そうとしていた。
「北沢のリノベ」の主室では、壁・天井の既存躯体のひび割れや凹凸を残しつつ塗装し、一部は50年前のプラスターを削り出して仕上げとしている。また床を4mm厚のフレキシブルボード(繊維強化セメント板)で仕上げ、躯体床のセメントに近い様相としていた。こうして仕上工程の途中であるかのような、綺麗に室内化される以前の状態に留められた仕上げが、この室に(内部空間でありながらも)野外に近い印象を与えている。
躯体ができ、下地をつくり、仕上をするという建設の過程を継続して経験したことがあれば、何もなかった野外から、完成した室内へと変化するあの振幅を理解するだろうと思う。つまりこの室の施工途中で中断されたような仕上げは、建設プロセスにおいて野外から室内化へと至る工程を逆に遡り、野外側に振れて留まっているといえる。だから中断された仕上げは、野外への親和性の現れといってもよい。
このように外部への親和性を高めるふたつの住宅ではあるが、中庭のようなかたちでより積極的に外部を囲うような構成は採られていない。矩形の室の周囲に外部を接続させるというよくみかける選択には、建築家の言葉から少なくともふたつの要因があるように理解できた。これには流動性という言葉がよくあてはまる。ひとつは建築の外壁面/施工面積を最小限にして少しでも初期の建築費用を抑えることで、現金(貨幣の流動性)を将来へ残そうという傾向、もうひとつは不動産の流通し易さ(流通の流動性(「小さな家」で汎用性という言葉で語られていた))への配慮である。いずれも(貨幣の、あるいは不動産の)流動性を選択する傾向である。
このことは、最初に挙げようとしたふたつの共通点のうちのふたつめと重なる。それは二つの住宅の主室(住宅のなかで最も大きな室)が共にほぼ同じ広さであったことだ。「小さな家」は幅3.6m×奥行8.7m、「北沢のリノベ」は幅3.3m×奥行8.6m(旧納戸部分を除く)で、ほぼ同じ広さをもってふたりの建築家は、必要かつ十分だとした。この室のサイズを、50年前の躯体が、耐震壁という動かし難い区画によって準備した(北沢のリノベ)ことは流通の流動性に、「小さな家」が許容容積率の約半分しか消化していないことは貨幣の流動性にあたる。
こうした流動性の選択には、不確実な将来という状況認識が背景にある。「もの」を持てばその価値は不安定で、事故や震災によっていつ、何が必要になるかもわからない。こうした将来に対する不確実性をつよく認識するほど個人は「もの」を買うことを控えて、貨幣を手元に残そうとする(これは貨幣の交換可能性(流動性)を好むという意味で流動性選好といわれる)。同様に不動産の流通のし易さという意味での流動性を残すことも、不確実な将来への選択のひとつであろう。
「小さな家」の主室は、敷地や法規の制約によって上限が決められた大きさではない。そして、この室の大きさについての感覚は、建築家のつくる住宅にあっては決して大きなものでもない(例えばこのギャラリーIHAで以前紹介された「小さな図書館のある家」(2020/07/24 review参照)は既存躯体のリノベーションであっても、より大きなものであった。)。建築の大きさや外形・構成が、敷地形状や法規制、技術的な制約など外在的な要因から決められることに、私自身いつの間にか慣れてしまっている。そうではなく二つの住宅は、建築主の(流動性選好のような)状況認識、つまり主観による自律によって、選ばれたものなのである。そうするとなにが住宅をそこに留めたのかという問(建築の自律性という問)に、より積極的な理由を求めたくたる。このふたつの住宅は、そうした意味でかつて問題となっていた、今となっては新たな課題に振れているのだろう。(町田敦)
House A
August 17, 2020
gallery IHA 2020 online lecture 02
「『そこ』で考えた建築」
House A,
木村松本一級建築士事務所
produce & curation:
長谷川逸子
-敷地は京都と大阪の間、どちらかといえば奈良の文化にちかいエリアで、天の川伝説の天の川付近に広がる田圃が住宅地にとって代わりつつある、その山沿いの一画である。そこには北側の崖部分に対して張り出した鉄骨造デッキとその上の小屋、石積みや奔放に育った草木が散漫にあった。そうした雑なものとの関係を残しておくことで将来に可能性を残そうと考えた。-
gallery IHA 2020 online lecture 02「『そこ』で考えた建築」第4回は「HouseA」について、木村松本一級建築士事務所のお二人にお話を伺った。
HouseAは一般の住宅に比べて天井は高く(2.8m)また内部に壁を設けず、限られた敷地に許される大きな箱を残している。また木造軸組みと斜めのブレースが露出した室内には素朴な細部ばかりで、好む人を選ぶようなディテールはないかのようにみえる。だからそのつくりをもって如何様にも使える=「将来に可能性を残す」といってもよいのだろうが、そのときの可能性とは「使用できる」という可能性である。木村・松本のいう可能性とはそれももちろん含意されているだろうが、それだけではない。
例えばミースのつくるような大きくて何もない空間に対しても同じ「将来に可能性を残す」という言葉はあてはまる。どのような時代になってもどのような使われ方をしても対応できる場を指して、そこでは空間の大きさ(スケール)や、特定の意味を担う細部を避けた意匠(抽象性)が含意されていた。しかし木村松本はスケールや抽象性によるものではなく、特定の意味を担う「雑なもの」との関係を残すことで「将来に可能性を残す」という。
―強く統合され、ディテールを失敗すると台無しになるといった建築は健全ではない。積水ハウスA型(1963年)のような完結性が高いものにも関心があるが、もう少し人に近い、例えば手を加えてもよいような構造というものがあってもよいのではないか。-
構造体は木造軸組みに斜材を入れ、鋼材を用いて2階の柱脚を継ぎ、庇を出し、ヴォイド管を自立させて小室がつくられている。室内に表れる木目は抽象的というよりは具体的で、トイレのヴォイド管はシルバーに塗られ、大庇のC型鋼はさび止めの赤のように鋼材であることを明確に示している。さらに既存の建物へ面する庭には穴あきレンガで舗装される。厳選されているとはいえ色やかたちが統一されているという印象はない。確かにそこには強い統合要因はないかのようにみえる。
―2階の柱の継ぐ箇所で外からC型鋼をあててボルトで接合し、このC型鋼をそのまま延長して大庇のフレームとした。トイレは1500φのヴォイド管を持ち込み、縦に置いた、これでわずか10数万円でできている。-
しかし、本当に強い統合要因はないといえるか。むしろよく調整された木軸のブレース構造を、外側に露出したC型鋼が統合しているという見方もできる。設計に関わる人間からみれば、水平な鋼材2本によって見事に統合された住宅といったほうが自然かもしれない。仮にそうでないとしても、かなり単純化された形式だからこそ、多様な読みを可能にしていることも確かだろう。
こうしてみると「将来へ可能性を残す」、「強い統合要因」といった建築を語る言説が、異なる水準で語られることによって逆の意味にさえなり得ることがわかる。それほど建築が担っている意味の水準は多元的なのである。1977年に多木浩二が長谷川逸子の二つの住宅(焼津の住宅2、緑が丘の住宅)について書いた批評のなかに次のような一節がある。批評の対象となった二つの住宅もまたHouseAに劣らずシンプルな幾何学、形式からできていた。
「建築の空間の質(つまり意味)とは、実際には考えられるかぎり多様にある。それはまるで、人間の無意識のように直接はつかみきれない。可視的な要素、形式は、たまたまこの厖大な意味のどこかに投錨するにすぎない。形式はそれを浮上させる。とすると、形式とは一種の隠喩的な機能をもつことになる。単純な形式とは隠喩を目に見えるあからさまなものとしてではなく、構造化されたものとして機能させるものである。」(多木浩二 多様さと単純さ 1977年)
木村松本のいう「雑なもの」とは、レクチャーのなかで示された周辺の町の様子、農村の地形のなかに落とし込まれた小さな小屋、増築された下屋、当たり障りのない素材によって組み立てられたテラス、あるいは左官資材店の前庭に置かれた砂利やコンクリートブロック、大きくかけられた庇である。そうしたものが一見構造化されずに、しかし必然的に配置された環境に我々は生きているのだが、あまりに多様でどこにでもあるので意識することはない。
HouseAはこうした雑なものとの関係を捨象しないという。しかしどの水準でそれらとの関係を残しているのか。HouseAの形式が浮上させるのは、何か具体的な環境の要素ではなく、また大きさやスケールといった抽象的な対象でもなさそうだ。ただその近隣の共同体の保持する経験則と手軽さから生じた「雑なもの」のレイアウトのなかにも、グリッドやパースペクティブでは捉えられない構造がある。そのようなものなのかもしれない。(町田敦)
生垣の中の家
August 17, 2020
gallery IHA 2020 online lecture 02
「『そこ』で考えた建築」
生垣の中の家,
栗原健太郎
studio velocity
produce & curation:
長谷川逸子
-生垣に囲まれた広い敷地に12枚の屋根と高さ3mのコア(囲われた個室)をばらまいた。屋根、コア、床仕上げ、外装建具、樹木、地被植物などを階層に分けて、それら相互の境界が一致しないように配置した。-
gallery IHA 2020 online lecture 02「『そこ』で考えた建築」第3回は「生垣の中の家」について、studio velocity 栗原健太郎さんにお話を伺った。この住宅にはどこかでみたことのある屋根の連なり、ガラス越しに見る庭、頭上に飛び交う木造の貫、木質とモルタル質の床といった既視感を伴う。しかし12枚の屋根がつくるこの住空間を成立させる細部は決して凡庸なものではない。
木構造としてはどことなく不自然にみえるのは壁が屋根まで達していないことによるのであろう。高さ3mというコア高さに対して、傾斜した屋根はそれよりさらに高い位置にある。天井高2.5mという木造一般のプロポーションに比べてはるかに天井が高いが、平面における室の幅と奥行きはそれほど大きくない。コアの陸屋根の梁と同じ高さに間室(コア以外の室内)の長押(貫)を置いているので、その軸組に嵌められたガラス建具は高さ2.8mほどはあろう。一間を二つに分割した引き違いの障子は、だからあまり見かけないくらい縦に長い。その障子に嵌め込まれたガラスが薄っすらと緑色に透けている(おそらく遮熱断熱性の高いLowEガラスだろうか)。
―屋根は水下側で壁(外装)に交わることのないよう注意深く高さと傾きが調整されたHPシェルである。コアと屋根を分離し、屋根を支える柱にはブレースを入れていない。この斜材のない木構造は、実は鋼材の柱を複合させ、複雑な検討と調整によって成り立っている。床にはロシアンバーチ合板(製造元が屋外での使用をも認めている)。屋外へ露出される柱や貫には防腐剤を注入している。-
木構造の柱の一部に鋼材の柱を混ぜ、屋根の水平力を負担しているという、これによりブレースもなく壁と分離された屋根が実現している。防腐剤を注入したという庇を支える柱は地面から直接立ち上がっているようにみえる(地面から同色の基礎を立ち上げているのだろうか)。ガラス窓は木軸に直接取り付けられたかのようにみえるくらい窓枠が細い(材の剛性や施工精度が異なるため構造体に直接建具を取り付けてはならないと学んだ設計者は多いと思う)。いづれも普通の木造ではこうはならないだろうという細部ができている。
新しい技術が折り重なって、これまでなかった屋根と壁の関係、地面と柱の関係、柱とガラスの関係がこの建築を通常の木造建築とは異なるものとしている。屋根、壁、ガラス、柱、床、中高木、地被類、生垣、等々注意深く統一された9つのレイヤは、この建築を理解することにおいて多い(豊か)と感じるかもしれない。しかし実際の生活環境においては、もっと多くの意味の水準(素材・レイヤ)に囲まれ、多すぎて理解の枠を超えているというのが実態であろう。ひとつひとつのレイヤは栗原さんがこの雑多な環境から切り取り、理解できる程度に厳選し抽象化したものである。
「生垣の中の家」は環境を理解可能な枠組みに回収できるくらいに抽象化しようとしたものであるが、厳選された素材は生々しいくらいに具体的な姿を見せている。だからその具体性によってどこかでみた木造といった既視感を与えながら、しかもよく見るとこれまで見ることのできなかった細部によって新たな環境を獲得しているのがわかる。(町田敦)
小さな図書館のある家
August 17, 2020
gallery IHA 2020 online lecture 02
「『そこ』で考えた建築」
小さな図書館のある家,
キノシタヒロシ
produce & curation:
長谷川逸子
-1952年鳥取大火の後、商店街が2階建てコンクリート造の防火建築帯としてつくられていった。長屋形式で壁を共有するその建築方式から建て替えが進まず、建築後70年近く経った今でも多く残されている。そのひとつに東京でカフェ(やギャラリー)を経営するオーナーが、鳥取にも拠点をつくりたいと相談を受けた。-
gallery IHA 2020 online lecture 02「『そこ』で考えた建築」第2回は、鳥取で設計事務所を主宰するキノシタヒロシさんの「小さな図書館のある家」である。密集市街地における延焼防止対策として、防火建築帯が指定されたのは、国内でこの鳥取大火後が初めて(1952年耐火建築促進法)である。この防火建築帯は住戸を隔てる壁を共有し、水平に連なる集合住宅のようなものである。道に沿って連続した建築の壁を形成することで、火災時の延焼をとめることが意図されていた(その意図に被災者の救済、建設による失業対策、地方都市の賑わい創出など多くの側面があることは言うまでもない)。その後、他の市街地でもこうした建築帯がつくられるようになる。
―延床132㎡の改修予算は設計料込みの400万円、間口6.5m×奥行11mの平面をどのように分割しても、隣地の駐車場の空地と比べて小さい。平面分割の様々なスタディは、隣地の空地や前面道路の空地と比べて貧弱なものと思われた。それで平面分割を止めてアーケードの天井高3.4mに合わせて1階の天井を解体して、RC躯体あらわしの天井(3.5m)とした。-
キノシタさんが多くの平面スタディから最終的に選んだのは、壁を建てず、天井を貼らないことであった。その判断のベンチマークとなっていたのが、駐車場として利用されているとなりの空地であり、アーケードの天井高さであり、あるいはアーケードに面する既存商店のセットバックした建具であった。つまり既存建築のインテリア改修でありながら、キノシタさんはその地区固有の建築(防火建築帯)と、その地域固有の外部空間(燐家に囲まれた駐車場やアーケード下の歩道)へと目を向けていた。街を歩く経験の延長としてインテリアを捉えているのである。
―施主が東京でフラットなワンルームで生活していたこともあり、2階の生活の場は和室を解体して壁をなくし、大きな一室とした。階段まわりにも壁を建てないよう1, 2階の境界扉は階段上ではなく階段下に設けた。-
キノシタさんの説明にはなかったが、壁を取り払ったこの2階の広間は間口6.5m×奥行9.2mで天井高3.3mである。偶然ではあろうが、この空間の間口:奥行:高さ(6.5 : 9.2 : 3.3)は篠原一男「白の家」の広間(6.4 : 10.0 : 3.7)に近しい。特にこの天井高3.3mは、昨今の東京の民間マンションを改装しても得ることはできない。経済性を優先させる都心のマンションの階高は3mを下回り、天井材を取り払っても天井高は2.7mくらいであろう。
なぜこのような躯体が残されたのだろうか。おそらく間口と奥行は大火で失われた木造家屋の既存の敷地割を考慮して決められたであろうし、階高はアーケードに合わせたのだろう。そのアーケードは、公共的な場にふさわしい高さとして3.4mが設定された、そう考えるとこの室のプロポーションはただの偶然ではない。権利を主張しあう市街地の土地区画は容易に変えられるものでない。鳥取大火以前の土地区画、家屋の広さ、軒庇の高さといった木造家屋のスケールを(少なくともそれを基準として)発展させ、継承したものである。
白の家(1966年)は高度経済成長期に古い木造家屋がコンクリートに置き換わりつつあるなか、失われてゆく木造家屋の豊かな空間のスケールを残した住宅である。防火建築帯もまた火災によって失われた木造家屋の代替としてつくられた。その目的と残される要因は異なるが、ふたつとも同じ空間のスケールを後世に残しているといえる。それはおそらくその地域にあって世代を超えて経験されてきた空間のスケールで、大きな公共建築などがない頃から、共同体の活動を支えて来ただろう。
―施主は仕事がら大量の本を所有しており、その置場所が必要であったから、その本を地域の人へ貸し出したり、公開してはどうかと提案をしたら、すぐに話がまとまった。一階は壁面に本棚を置き、コンクリートブロックとモルタル左官でつくったベンチを大きな輪を描くように配置した。-
こうしてみると木造建築による市街地形成から鳥取大火を経て防火建築帯がつくられ、そこに小さな公共の場を設けようと「小さな図書館のある家」が出現したのは決して偶然ではない。明確な輪郭をもって現れ、いつも私たちが認識の対象とするものではないが、地域には確かに建築や土木といった分野のつくる、ある骨格がある。そこに潜在する構造が新たな役割を担って将来への継承されてゆく姿をみたように思う。 (町田敦)
半居
August 17, 2020
gallery IHA 2020 online lecture 02
「『そこ』で考えた建築」
半居, 飯田善彦
produce & curation:
長谷川逸子
-仕事で京都へ通う道すがら琵琶湖の北、今津港ちかくの切妻屋根の並ぶ街並みと、湖畔に浮かぶカヤックをみて安い土地を衝動的に買い、小さな拠点をもちたいとおもう。敷地は琵琶湖の西岸にあるが、堤防を兼ねた湖畔沿いの道路が障害となり、琵琶湖を望むこができない。それで、とにかく合理的に安く、500万円くらいで塔をつくることにした。-
gallery IHA 2020 online lecture 02「『そこ』で考えた建築」第1回は「半居」について飯田善彦さんのお話を伺った。Reviewではその内容のごく一部を要約して斜体文字で紹介しながら考えを述べてみたい。
―木造は普通につくると「うるさい」、だからといって大スパン大断面の木造をよいとは思わない。それで一間を2,250mmとして2間×2間の田字型平面として、3mと4mの規格材を無駄なく使うため1階の階高を3m、2階を4mとした。長い柱を固めるため床上2mの高さに貫を入れた。-
例えば和様と呼ばれる木造様式では現代のように耐震要素として筋交いや面材を多用せず、貫を多く用いて全体を固めていた。その構造で数百年たち続けているものもある。ところが近年の木造はそれと大分異なり、軸組のグリッドひとマスを合板等で閉じ、そのパネル面が多く、かつバランスよく配置されているほど耐震性が高いという考え方をである。柱-柱の間を合板でパネル化するためには間柱や枠材を必要とし、より安全側に建てようとすればするほど使用する木材量は増えてゆく。
こうした考え方で木造住宅に必要な壁量が2度(59年、81年)の法改正において強化されてきた。90年代には木材のプレカットが普及し、生産者の責任が強化(95年:PL法)されると、設計者や時には工務店でさえ木材の調達・加工・建て方のプロセスに介入しづらいという状況が起こりつつある。*1木工事はブラックボックス化しているといってもよい。既存の法律に基づく仕様規定に沿っている限り、このブラックボックスから逃れることはできない。
*1 2017年秋-2「地域資源を編む」:中嶋 健造+富永 大毅「イラっとする日本の木材資源活用―自伐型林業と小規模流通による無垢材利用の可能性」
―2階の外壁は柱通りより45cm外側へ張り出し、この部分に暖炉や空調機などを置き、テーブルやカウンターを設けた。柱と梁にはともに120角の木材を用いて、開口のある面にはSt.ロッド(8㎜程度)のテンション材を設け、合板の壁にはSt.のほおずえを3か所設置した。-
使用する木材の㎥数が増えるばかりの現代軸組工法から逃れるためには、軸組と外装材を切り離せばよい。そうすれば軸組を壁パネル化すれば耐震性が高まり、かつ外壁下地も兼ねるといった費用対効果のモーメントから自由になれる。壁・パネルの代わりに用いたスチールロッドによるテンション材は、目立たないがごく最近の技術である。20年以上前は鋼材を用いた木造耐震用の斜材(ブレース)の効果は高く評価されず、接合部はとても見せられるものではなかった。金物やビスの効果が確かめられ、見える箇所へと用いられるようになったのは、最近(2000年の法改正と告示の後)のことであろう。*2
*2 例えば建築家が好んで用いるステンレスブレース:コボット(半居では用いられていない)は2008年の認定取得
―1階の東半分を土間、もう半分の床を1m上げて水回り(トイレ、洗面、風呂)とし、その床下を配管スペースとした。この家の室内の扉はトイレのみである。2階にも2mの高さで貫を渡してGFRP(ガラス繊維補強プラスチック)グレーチングの天井を張り、その上部60㎝ほどの隙間を収納に、南側半分にはOSB(配向性ストランドボード)板で床を張って高さ1.4mのロフトをつくる。-
木工事に加えてもうひとつのブラックボックスは下地材であろう。天井面や壁面を少しの歪みもなく抽象的に仕上げようとすると、丈夫な下地と面材が必要となる。表層に対する高い美意識が高コストの下地を必要とし、見えないところで材の量は益々増えてゆく。これを低コストで解決する仕上げが塩ビの壁紙である。クロス(以前は手の込んだ織物を用いた)や壁紙(以前は和紙を貼っていた)とは、古き良き時代の良質の仕上げの名称であって、今では表層だけがプリントされた塩ビシートに過ぎない。塩化ビニルを避けたければ、相当の費用をかけて本物の仕上げをするか、あるいは仕上/下地という概念を放棄(天井は下地の不要な新建材GFRP、床には下地に用いるOSB板と)するしかない。
―屋根は24mmの合板。屋上にはスライド式のトップライト兼出入口を設けた。木枠にアクリル板を嵌め、スライド金物を用いた簡易的なものだが、10年使って雨漏りはない。屋上の手摺は2階外壁よりさらに450㎜張り出し、メーカーと開発したフラットバーを組んだ金属メッシュを手摺としている。-
最後のブラックボックスは建具である。建具は雨漏りや戸の開閉など直接生活に影響するため、クレームに発展しやすい。木軸組より繊細な加工と調整が必要であり、通常は専門の職種がこれを担う。建築主や設計者が建具に高い性能を求めれば求めるほど建具メーカーは保守的になり、骨太でコストの高い建具ができあがる。良くも悪くもこの循環に誰も異を唱えられない。それなら既成の窓や扉を設けず、必要最小限で手作りすればよい。
―2階の外装、上段のルメウォールは、当時海外製で継ぎ目にアルミの棒を挿入している。西側から強風が吹くことを設計時から承知しており、西面をOSB合板貼りの外壁とした。断熱材として50㎜のスタイロフォームを用いて、仕上げは塗装で10年持てばよいという程度、断熱効果はそれほどないが、冷暖房が好きではない体質だから苦にはならない。-
ルメウォール(中空ハニカム・ポリカーボネート板)の熱還流率はアルゴンガス入ペアガラスと同等程度、素材の軽さや見た目の軽さをペアガラスと比べれば、ずいぶんと高性能だと思われる。ただし、ガラスほど剛性が高くないためおそらく水密性は通常のアルミ建具よりも相当悪く、台風などで内外の圧力差が大きく生じる場合には水が浸入してくるのではないかと心配してしまう。しかし竣工して10年、ここからの雨漏りはないという。
―琵琶湖を望む2階の東面と南北面の半分は15㎜のアクリル板としている。アクリルの比重はガラスのおよそ半分で熱伝導率はおよそ1/4である。ガラスの材質や建具枠、突付けのコーキングがあまり好きではなくアクリルとポリカーボネート板を用いた。アクリルにはガラスにはない質感があり、雨の日の水滴の付き方も異なる。ガラスよりも湿潤な質感があり気に入っている。-
アクリルの熱伝導率(λ:W/mK)はガラスのおよそ1/4(~1/5)であり、これは熱還流率(U:W/m2・K)でアルゴンガス入りペアガラスと同じくらい、つまり上段のメルウォールと同程度である。半居の2階は性能のよいペアガラスで覆われているのと同程度といってよいと思われるが、それでもペアガラスの熱還流率は通常の木造壁の3倍(熱を通しやすい)である。この断熱性能の是非は住み手次第であると言ってしまえば簡単だが、実はこうした数値を春夏秋冬、日々変化する体験に照らしてその是非を判断できる人は専門家のなかでも少ない。専門外の人はほぼ判断できるだけの知識と経験を持ち合わせていないと言ってよい。だから住み手次第ではないのである。
私たちはお金を払って住む場所や住む環境を自ら選び、獲得していると錯覚しているのかもしれないが、実はこうした住環境の性能はごく社会的に構築された枠組みから逃れることが難しい。だからこそ、こうした法と生産のシステムが背景にあるからこそ「半居」はすごい、飯田さんレクチャーのなかで「いい加減なものです」と謙虚に何度も言っていたが、高度に積み上げられた建築生産システムの行き過ぎた状況に対して、ラディカルに住環境の性能を「落とし」、「良い加減」(適正な精度)を提示したのである。そうして得られたものとはいったいどういう経験なのか一度は訪れたい住まいである。(町田敦)
ことばと建築
August 17, 2020
gallery IHA 2020 online lecture 01「ことばと建築」
隈研吾 「点・線・面」
東辻賢治郎 「レベッカ・ソルニットの著作と紀行文と地図 —時空間と記述の関係について」
南後由和 「トランス・メディアとしてのニューバビロン—シチュアシオニスト経由の都市・建築」
飯島洋一 「アンビルドの終わり」
五十嵐太郎 「建築の東京」
produce & curation:
長谷川逸子
gallery IHA 2020 online lecture 01「ことばと建築」の最終回が6月29日に終わった。このレクチャーシリーズでは特定の建築の実体についてあれこれと言葉にするというよりも、模型や図面、写真や言葉などで記述された「もうひとつの建築」が論じられている。その内容は多岐にわたり参加者個々人の解釈の内にあるからここで少しの言葉で語ることはできないが、通して聞くと登壇者の意図とは別の、ある傾向へと想像力を働かせることができる。ここで5回から1回までを遡り、簡単にだがそれらを繋ぐラインを辿ってみたい。
平成の時代の東京には、昭和や明治に比べて残すべき建築を探すのが難しいという最終回の最後の10分、五十嵐太郎さん(第5回)の近著「建築の東京」についての塚本由晴さんとの会話を聞きながら、二人の90年代の活動に共通の傾向があったことに改めて気づかされた。塚本さんらが90年代の終わりに展開していた「メイドイントーキョー」では、東京の市街にある雑多な建物を取り上げ、広告看板や高速道路などと唐突に隣接する建物たちのなかに現代の東京の姿を見出していた。五十嵐さんはやはり90年代の終わりに新興宗教の建築を研究対象としていた。なかでもオウム真理教の施設である「サティアン(山梨県)」のことはよく記憶に残っている。その驚きは東京という都市が生んだ極端な事件との関係ということよりも、歴史的に「建築」文化の担い手であった宗教がなぜ現代においてそうなり得ないのか、タブーともいえる新興の宗教へ目を向けていたからであろう。
新興の宗教も市街の雑多な建物もともに「計画」や「建築」という枠組みから外れたフィールドであった。同じく90年代の終わり98年には、ロッテルダムでオランダの芸術家コンスタントの「ニュー・バビロン」に関する包括的な展覧会が開催されていた。その一連の作品の出発点として南後由和さん(第3回)は、イタリア・アルバのジプシーたちのキャンプのためにデザインされた模型(1956年)を挙げる。定住しないジプシーたちは、定住を前提とした社会から差別や迫害の対象となってきた歴史があり、都市計画や建築計画からこぼれ落ちたフィールドであっただろう。
2011年の東日本大震災では、住む家ばかりか生まれ育った土地まで奪われた。その結末を誰が想定していただろうか。被災地で家を失った人たちとともに設計された「みんなの家」(伊東豊雄ほか)はただ被災者が集まるための家である。飯島洋一さん(第4回)はこれを、有名建築家がつくる作品としての建築と対峙させ、高く評価した。誰も想像していなかったその状況に建築家は大いに迷いながらも、被災者との会話から建築のあるべき姿を謙虚に探した。
レベッカ・ソルニットは「迷うことについて」未知のものとの出会うことへの憧れとして描く。訳者である東辻賢治郎さん(第2回)は「気候変動やエコロジーといった時間軸を含めたグローバルで複雑な問題に関心をもつとき、そうした世界観では、世界から「遠さ」がなくなってゆく、未知のものに還元されていた「隔たり」みたいなものがなくなってゆくという認識を共有している。」という。この著作はそこで失われつつある隔たり、遠さについての記述である。
隈研吾さん(第1回)の近著「点、線、面」の着想にあたり紹介された論考:ブルーノ・ラトゥール+アルベナ・ヤネヴァ「銃を与えたまえ、すべての建物を動かしてみせよう」では、諸々の要件に沿ってその都度異なる方法で記述され、更新され続ける建築のプロセスにこそ目を向け、静止した投象図や透視図に代わる新たな記述方法を探るべきだと論じられている。ラトゥールの門下生でもあるソフィー・ウダールは隈さんの事務所へ潜入し、「小さなリズム-人類学者による「隈研吾」論―」を書いた。そこでは建築が構想される過程において生成される小さな成果物(模型)と人との間に表明される知性が、ごく具体的に観察され報告されている。
こうして辿ってみるとニューバビロンや新興の宗教、メイドイントーキョー、みんなの家、そして「人類学者による「隈研吾」論」も、近現代の都市計画や建築計画が捨象したもの、都市にありながらも遠く、隔たり、未知であるものを記述しようとしていたことがわかる。いづれもそれら(隔たりの先にあるもの)を顕在化させ、記述する新たな言語のようなものである。(町田敦)
運動と風景
November 20, 2019
「理論としての建築家の自邸」
第5回 坂牛邸
curation:門脇耕三
produce: 長谷川逸子
9月17日建築家の自邸訪問で坂牛卓さんの自邸「運動と風景」(2019年竣工)を見せて頂いた。神楽坂近くの行き止まりの路地奥に慎ましく建つファサードは巾18cmほどのガルバリウム鋼板(断熱材込みのサイディングとのこと)で、周囲の古い木造家屋の目地割りのスケールに(玄関の高さ2.6mという背の高いガラス扉を除けば、)溶け込んでいる。中に入りお話を伺いながら一巡し、出てくるまで40分、外に出たときに半日くらいここにいただろうかと思うくらい長い時を過ごしたような感覚を覚えた。
そういえばこうした経験を何度かしたことがある。それも1970年くらいに設計された住宅を訪れたときで、近年、建築家の設計した家でこうした感覚を覚えたことはほとんどなかったように思う。学生の時、「建築」とはこの広い環境から内部を覆い取る(分節する)ことによって、他の分野(彫刻や土木構造物)とは異なるのだということを学んだ。これを仮に建築の内部性とよぶとすれば、建築とは(他分野との差異が価値をつくりだすのだから)内部性を高めることによって成しえるのだと。こうした傾向が60年代から70年代を通じて一部の特に住宅作品にあり(もちろんそれだけではないが、)、その後の80年代から90年代、2000年代は、徐々にこうした内部性の強い空間のあり様が(技術的な進展とともに)開放されていく過程であったと理解している。
この内部性の強さとはどのようなことを指すのか、簡単に言えば開口部を小さくし、壁を厚くすることで、住い手の感覚と外部環境を遮断する(閉じる)ことである。この神楽坂の家でも開口部が少なく、あっても巧妙に壁面棚の中にしまい込まれ、室内にいて外へ視線をむけるのは浴室の小さなバルコニーくらいであった。コンクリート造の地階では外の音はほとんど聞こえず、吸音の少ない室内仕上げが室内の会話をより際立たせる。上階の木造壁には20cm、屋根には30cmの断熱材が設けられており、外気温の変動が直に伝わることはない。気密性、断熱性、遮音性といった外装の性能に対する認識も50年前に比べて大きく異なり、技術的にも改善されている。そのことが開口部を大きくすることへの建築家の釈明に根拠を与えていたのだが、この家では技術的な認識の進展をより内部性を強める方向へと集約してハイスペックな内部性が獲得されている。
こう言ってしまうと単純なことのようだが、建築の内部性とはもう少し奥が深い。たとえば薄い鋼板で覆われた窓のない倉庫のような家屋は視覚的に閉鎖されているが、雨音や風音を室内へ伝え、外気温をほとんど直に室内へ伝えてしまうため内部性が強いとは言い難い。室内で感じる雨風音や外気温の変化が、天候や季節の変化、環境との親密な関係を生活の経験に刻み込むからだ。
こうした内部性の強度を住い手(あるいはその住宅をつくりだしている共同体)の外部環境への認識の現れとして読みとることもできる。同じ江戸期の木造家屋であっても農家と町屋では全く異なり、特に関東より北の農家などは厚い屋根で覆われ、開口部が小さく内部に大きな土間を抱え込み、訪れるとまるで外の環境(たとえば自然)を恐れているかのうように感じることがある。これに対して市街地の町屋は地域の共同体への信頼といった抽象的な水準も含めて外部環境との親密性が高い(と感じることが多い、もちろん例外はあろうが、、)。内部性の尺度を欧米の建築空間や、寝殿造り、モダニズムといった特定の地域・時代へと援用し、また、そのとき対象となる外部環境とは何か(自然、気候か、農村共同体か、大気汚染や騒音か)を問うことで、ある時代や地域における環境に対する認識(人がこの世界をどうとらえているか)を読みとることもできる。
神楽坂の家ではこの内部性が高いにも関わらず、閉塞感はない。外装の高い断熱性能と高低差によって、書道教室として人を招く地階の土間空間と2階のリビングでは1、2度温度差があるそうだ。らせん状に折曲がった階段に沿って小さな機能(キッチン、机、寝床、浴室)が結び付けられ、ほとんど扉もなく各室が繋がっているので、連続性があると同時に多様な(異なる)場として経験できる。リビングにあきたら地階の土間空間へ、そこにあきたら中間階の和室へと場所を変えながら長く居続けられる。勾配の厳しい神楽坂の傾斜と細分化された敷地割が内部でも反復されるかのように階段が小さな場を繋ぎ、小さなお店を眺めながら坂を登るというような経験が内に入っても連続する。そのことが高い内部性を外部環境へと接続して閉塞感を緩和しているのかもしれない。(町田敦)
Boonserm Premthada Lecture 04.Oct.2019
October 08, 2019
Boonserm Premthada Lecture
produce: 長谷川逸子
2018年、英国のロイヤルアカデミー(RA)は二つの賞(建築賞とドルフマン賞)を創設した。その第一回目の建築賞は日本の長谷川逸子さんが、ドルフマン賞はイランのAlireza Taghaboni氏が選ばれた。そしてその翌年、2回目のドルフマン賞を受賞したのが、タイの建築家Boonserm Premthada氏である。
ブーンサムさんの建築は単純にその姿がとても面白い。平面的には直線状、鉛直方向に波うつ煉瓦の厚い壁(平面で曲線、鉛直で直線はよく見かけるが、その逆である)の開口は大きくガラスが嵌められておらず、タイの寺院の廃墟のようにもみえる(Katana Film and Animation Institute)。歴史上の建築物のごとく積まれた煉瓦は、現地の伝統的な方法で焼かれ積み上げられたものだそうだが、その断面図をみると中に鉄骨が組まれ、煉瓦のダブルスキンになっている。暑くて日差しの強いタイの気候から生まれたものだ。
ブーンサムさんは片方の耳が聞こえず、聴覚機能が十分ではないそうだ。そのため環境のなかで音を知覚することにとても敏感だという。Katanaの波打つ煉瓦壁で囲われた中庭の床をコンクリート平板と砕石のパッチワークにしたのは、床材によって(近代的/伝統的な材料による)異なる足音を知覚することを意図しており、鉛直方向に波打つ壁がそうした音を反射する。伝統的な街並みで両側に煉瓦塀のある細い路地では、壁の向こうの環境音が回折して路地で反響して聞こえる。それと同じような効果があるという。
このレクチャーを聞く前に私はブーンサムさんの建築を少し誤解していた。写真から得られる時間(廃墟のような姿)とスケール(高い階高)を逸脱した印象は、現代の日本の状況に置き換えたときに、建築として実現し得ない特殊解(コストと機能の制約のないアート作品の類)のように思えるからだ。しかしレクチャーを聞くと、彼のつくる建築が常にコスト上の制約と奮闘し、特殊ではあるが、誠実にプログラム上の要件に応えているのがよくわかる。ここで特殊と書いたのは、日本でいう学校や図書館といったビルディングタイプで括られるようなプログラムではないという意味で、それはタイの気候(熱帯気候や川の氾濫)や歴史性(自然や象と共存する社会)から発見的に導かれるプログラムである(その詳細を述べるには紙面が足りない)。
例えば、内部に5つの螺旋階段を囲う合板がワッフル状に組まれた巣箱のような建築(The Wine Ayutthaya)には、外壁にPVCの透明シートが垂れ下がっているだけで、ガラスは嵌められていない。雨季にはPVCシートで雨をしのぎ、それ以外の季節は開け放して使える(タイには冬がない)そうだ。これらの合板は鉄骨のフレームにビスやボルトで固定され、交換可能なように造られている。これは目の前を流れる川の周期的な氾濫に備えて(つまり川が氾濫して合板が朽ちても交換できるように)のこと。5つの螺旋階段が近隣にある世界遺産(Ayutthaya)とは異なる新たな観光のあり方を模索するなかで生まれたものであることもよく理解できた。
まず日本では(耐久性やコスト面で)実現が難しいだろうと思われたディテールが、レクチャーを聞いてみると、現地の気候や特別な歴史的・文化的な実状に対して考え抜かれた末に出来上がったものだということがわかる。彼自身が強調しているように、その建築には、煉瓦や木といった現地のローカルな技術(あるいは技術を持たない労働者たち手仕事)を鋼やコンクリートといった近現代の技術と併存させなければ決して実現しえなかったスケールと繊細さがある。
レクチャーのポスターの表紙を飾るスノコ(木製の板)で覆われた巨大な屋根は、象のための日除けで、やはり中には近代的な鉄骨トラスがありコンクリートの柱で支えられている(Elephant Stadium)。屋根下の地面の起伏は人工的につくり出したもので、斜面から劇場の客席のように象を見ることが出来る。特定の周期で攻撃的になる象の習性に備えて、人の居場所となる斜面には鋭利な砕石を敷いて、象が(踏むと痛いので)立入らないよう設計されている。同じ敷地内に建つ煉瓦の廃墟のような搭は、やはり攻撃的になった象から逃れるための(人のための)檻であり、同時に展望台でもある(Brick Tower)。なぜ象のための日除け?かと思われる方はぜひブーンサムさんの説明を聞いてほしい。この計画には辺境の地で象とともに生きてきた村の歴史と、象に自らの生を重ねながら持続する共同体の現在が描かれている。
このレクチャーを聞いた後、タイも日本と同じように西欧からもたらされた近代化と自国の歴史的な文脈との葛藤を続けてきた、同じ問題を共有している地域であったということを改めて感じた。RAの2つの賞の設立趣旨(建築のグローバルな擁護者としてのロイヤルアカデミーの役割を高め、また発揮することと謳われている)と、一回目、2回目の受賞者の建築から読み解ける方向性は明確である。それは華々しく世界各地で独自のスタイルを実現するスター建築家とは異なり、自らが生まれ育った場所で学び、そしてその場所の歴史的な文脈を現代の高度な技術とともに飛躍させる、決して単一の文脈からは生まれえないであろう建築の在り様である。(町田敦)
横浜の住宅
September 17, 2019
「理論としての建築家の自邸」
第4回 横浜の住宅, 伊藤暁
curation:門脇耕三
produce: 長谷川逸子
9月14日、建築家の自邸シリーズで伊藤暁さんの自邸「横浜の住宅」(2014年竣工)にお邪魔した。横浜の住宅地というと、急な斜面に一層分(3~4m)はあろうかというコンクリートか間知ブロック積みの擁壁のうえに窮屈そうに2階建ての住宅が建っているというイメージが浮かぶが、この横浜の住宅はまさにそのイメージにぴったりの急斜面と擁壁に囲まれていた。こうした擁壁をもし新たにつくろうとするなら、およそ木造住宅一軒分くらいの費用がかかる。宅地造成後に分譲される土地代にはその擁壁分が上乗せされるだろうから、そもそも斜面地に居を構えること自体が(今の法律や生産システムにおいては)平地の倍の費用を必要とする。
横浜の住宅はそうした斜面地のなかでも北向きの急斜面(北斜面ゆえ周辺地域で最後に残された場所が80年代に造成された場所とのこと)に建ち、南側は2層分もあろうかという隣地の高い擁壁に面し、それを繰りかえすように南東にこの敷地の擁壁がある。この敷地の大きさと斜面における掘り込まれ方を見れば、いわゆる住宅市場が求める南面採光、南面の庭、道路からセットバックした家屋配置という郊外住宅のイメージを実現させ得ないポテンシャルをもっていることがわかる。にもかかわらず、ここに建っていた既存の住宅はその市場の要請通り南面に窓を設けて建てられ、伊藤さんはそこにしばらく住んでいたとのこと。
既存の擁壁を左手にみながら(これに手を加えると相当のコストと期間を要する)、急な斜面を登り切ったところで玄関にたどり着き(擁壁があるためここでしか前面道路とレベルが合わない)、入ると大きな白い膜材が一面に貼られた壁と対面する(高い擁壁がある南側には小さな窓が一つだけ)。民家の土間を思い起こさせる一階の黒い石タイル貼の床と高い天井(4mの天井高を設けても斜面上の隣地よりもなお低い)、壁面高く設けられた棚の下には、伊藤さんのデスクが置かれそこでニコやかに概説している姿が普段の生活を伺わせた。1階の東側の奥に主寝室が設けられているが、(敷地東端では前面道路と1層分のレベル差があり)防犯や騒音面で気になることはない。その部分だけ鉄骨でつくられた階段を上ると、2階は天井の低いワンルームのリビングダイニングで、遠方まで開けた景色が大きな窓越しに広がっていた(斜面地ゆえの特権的ビューの獲得)。
その後のレクチャーで自身の建築実務の出発点が担当した富弘美術館(ヨコミゾマコト)であり、当時について以下のようなコメントをされていた。当時は、シングルラインで描かれた図式が理想であって、その線のように可能な限り壁は薄く、柱は細くあるべきだという風潮(当時そうした風潮が設計者の間であったように私も同感する)のもと設計していた。ところがその図式が建築として立ち上がるときに抽象的な線ではあり得ず、理想との乖離を感じたとのこと。その後、自身が地域(神山町)で建築をつくることを通じて、抽象的な図式を理想とする建築のあり方ではなく、もう少し具体的な水準(建築の地域性)で建築を考えるようになり横浜の住宅を設計したという。
この話を伺いながら多木浩二さんの「空間図式」(「生きられた家」)を思い出した。私の理解では図式とは、人が生きるために何らかの手段で自らの環境を分節し、その分節に時代や個人それぞれの固有の図式が刻み込まれ、共同体や個人はその図式に現実を同化する。そうしてみると、建築家は時代や社会を読み取り、環境を分節する主体となり得るわけで、伊藤さんが横浜の住宅で試みた「反」図式的なアプローチ(建築の地域性)によって、市場が盲目的に求める住宅を反転したような斜面と建築の具体的関係が空間の図式として建ち現れている。それは伊藤さんが富弘美術館の担当を経て建築家としてこの環境に対峙し、分節し、紡ぎ出した(唯一ではないが)固有の空間の図式であったといえば言い過ぎだろうか。さらにいえば伊藤さんが建築家としてこうありたいという現実を、自邸を介してその空間の図式(円や正方形といった抽象的な図形のことではない)に同化しているようにも思えてくる。
(町田敦)(撮影:前田凌児)
アシタノイエ
July 10, 2019
「理論としての建築家の自邸」
第3回 アシタノイエ, 小泉雅生
curation:門脇耕三
produce: 長谷川逸子
7月6日、建築家の自邸シリーズで小泉雅生さんの自邸アシタノイエ(2004年竣工)にお邪魔した。旗竿敷地の細い路地的なアプローチから玄関を前にして、まず目につくのは木製のルーバー、よく見るとスロープの手摺の縦桟を背丈上まで伸ばしたものだった。上をみると外の軒天井にはあまり用いられない岩綿吸音板が目にとまる。?、湿気の多い屋外でなぜこの素材を用いたのだろうと思いながら、中へ入ると小泉さんが笑顔で迎えてくれた。
それからこの住宅に込められた様々な細部の意味を説明して頂いた。真空ガラスを複層にした大きなガラス面、外気の影響を受けやすい木構造の蓄熱性を高めるためジェル状の蓄熱体を床・壁に設置、床材には厚さ3mmのダイライトを用いた薄いフローリングを開発して、熱の放射効率を高めた温水床暖房を設置、室内の温熱環境へのこうした積極的な試みは竣工から15年程経た今でも一般に普及しているとは言えない。
リビングらしきこの住宅の中心的な場所からは崖に沿って張られた白いスノコ曲面に面して大きな開口があけられている。この敷地の高低差が住空間のプライバシーを高め、白いスノコが光を反射して室内を明るく照らし、内と外の近しい関係を印象付けている。敷地の高低差、高断熱ガラス、光の反射板としてのスノコ、住宅の各部位が高度なエンジニアリングで支えられているが、そのことを忘れさせるような光景であった。
2階へ上るとキッチン・ダイニングが、独立した小屋のように屋根から突出し、緑化された屋根の向こうに主寝室がやはり小屋のように置かれている。そのDK室のなかで、ヨーロッパやアメリカではLとDKは日本ほど一体化・連続していないと小泉さんは話す。確かにLとDKを一体化し、アイランドキッチンなどにこだわることが時代の先をゆく専門知識であるかのように語られる日本の住宅市場では、それによって住宅のプランニング(そしてそこから得られる日常)を不自由にしているのかもしれない。
この屋根の上に上るとまるで芝の庭のなかに2つの小屋だけが建っているかのようで、その小屋が主寝室とダイニングキッチンであることを知って、建築家が描いた家族の過ごし方、理想的な風景が屋上に展開されていることがよく理解できた。どこかプールサイドにでもいるようなこの不思議な感覚は、東の斜面上の道路の傾斜と違和感なく連続する屋根や、建ぺい率40%いっぱいにつかいながら容積率を1/3しか消化しない2階部分を抑えたヴォリューム操作によって成立している。
その後のレクチャーで、少し違和感のあった天井の吸音板は、公共ホールの設計で永田音響と協働した経験から、室内の音環境に配慮して全ての天井を吸音材にしたとのこと。ガラス面が多く、物が少ないわりに室内の会話が静かで紳士的であったのは小泉さんの人柄ゆえかと思えたが、天井の吸音材がその経験を支えていたようだ。(町田敦)(撮影:六反田千恵)